今日は早起きをして、2002年に39歳の若さで亡くなった喜多光成さんのお墓参りに行ってきました。
喜多さんのお墓は東松山なので、私が住む春日部からは距離にして約40km、車で1時間20分くらいです。今年の彼の命日の9月15日は平日だったためにさすがに行けず、日曜日の今日、行って来ました。
実は昨年も命日の9月15日は平日だったために行けず、そのすぐあとの日曜日は日本ベテランズ国際柔道大会で佐賀県嬉野市に行き、その次の日曜日は3月に父が亡くなったために実家の遺品整理、さらにその次の日曜日は和歌山国体、という具合で毎週日曜日には必ず何かがあり、とうとう喜多さんのところに行っていないまま1年がたってしまいました。ですから今日は「絶対に行くぞ」という強い決心で行ってきました。
近くのセブンイレブンでよく冷えたモルツ・プレミアムを買って墓前に供え、手を合わせていろいろと話してきましたが、往復の車の運転中もいろいろと彼とのことを思い出していました。
写真は1995年7月に広島国体リハーサル大会として行われた全国教員柔道大会の時のものです(手に持っているのはもみじまんじゅう)。
当時の埼玉県は若手教員の採用が多く、強い選手もたくさんいたため、教員大会の選手を決める予選がありました。
私は1984年に教員に採用されて以来すっと予選に出ていましたがなかなか選手になれず、1995年の広島大会が初出場でした。
その間に埼玉県チームは1992年・1993年と全国教員大会2連覇を果たし、その原動力になったのが喜多さんと吉井誠さん(現・浦和高校教員)でした。1992年に初優勝した翌年に、喜多さんと吉井さん以外の3選手が入れ替わっても優勝したので、埼玉県の層の厚さがわかると思います。
ところが写真の広島大会では喜多さんは選手ではなく、サポートとして同行してくれました。彼が予選で負けたのか、ケガでもしていて予選に出なかったのかは覚えていません。
初戦の滋賀県戦の時、中堅の私は、埼玉県の先鋒(澤田克也先生(現・熊谷商業高校))、次鋒(堀基博先生(現・川口総合高校))は強いから1・2点リードでくるだろうと思っていました。
ところがいざフタを開けたらわずかに有効勝ちの1点リード、私の緊張は最高潮です。その時に喜多さんが走ってきて「先輩!大丈夫ですか!顔が青いですよ!畳と同じ色でどこにいるかわからなくなってますよ!」と彼なりのユーモアを交えて檄を飛ばしてくれました。
おかげで緊張がとけた私は開始早々の巴投で一本勝ち、あらためて喜多さんに感謝したことをよく覚えています。
今でも「喜多さんがいたらなあ」と思うことがたびたびあります。彼から教わった常に強気の姿勢は、今の私自身の柔道や生徒たちへの指導に生きています。
これからも彼から学んだことを忘れず、常に強気の姿勢で事に臨み、ビールを飲むときには彼のまねをして氷水で徹底的に冷やして飲みたいと思います(笑)。
喜多さん、今日は2年ぶりのお墓参りでたいへん失礼しました。これからも見守っていてくださいね。いたずらや意地悪はしないようにお願いします♪(笑)
よく冷えていました♪
2人とも若い!